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納佛

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祈るということ

童地蔵菩薩坐像普段の生活の中に起こっている様々な出来事は意外にも次のいずれかに分けることができるといっても差し支えないかもしれません。

自分の想いひとつで良くも悪くもできることと、自分の力ではどうにもできないこと。

そのとき遭遇している出来事がもしも後者である場合、結果に直接関与しうる実際の行為はほぼ皆無といっていいと思います。

そういう状況に置かれたとき、人はみえない何かに向かって無事や安心や成就を願う行為をし始めるのだと思います。その願う行為は人それぞれ様々な形で行われ、それによってか否かは判らずともひとつの願いが叶ったり終息したりすると、みえない何かによって齎された喜ばしいその結果に、祈りが届いた、と、安寧とともに感じるのだと思います。

祈りが聞き届けられる特異な時空

地蔵菩薩立像自分の力ではどうにもならないこと、どうにもならないと判っていながらそれでもこのままではいられない想いがこみ上げること。そこに祈るという行為が生じようとするとき、その対象が神仏であることが多いこの国においては、自らが寺社仏閣へ赴きそのご神体やご本尊に祈願するという行動につながっていきます。

そのような祈りは、その場所、その環境、その所以など様々な形はあれど、日常とは異なるそういった別時空とも思える空間と空気において行われるからこそ、祈りは届くのだと思わせるものがあると思います。そこに科学的根拠はなくとも、人はその別時空で祈願するということそれ自体に意味を見出していると感じます。

何かを願う者にとって、寺社仏閣とはそういう機構を内包した、時間と空間の精神装置なのではないか、そのように感じます。