invisible sensation

腹に泥が溜まってるのが人だと思った。
つまり、人は水底に泥を溜めた池。

心のざわつきは水底の泥を捲き上げ池の水を濁らせ泥水にする。

そうなるまいと綺麗にするため泥を池から掻き出したところでまた溜まってくるから、潔癖に掻き出し続けても終わりがなくて気が狂ってくるだけ。
何も綺麗にならないどころか、腹の底が引っ掻き傷で真っ赤に爛れて今度は膿が溜まってくる。
たとえ仮に全部泥を掻き出せたとしても、それはもうすでに、人ではない。

強くなろうとしても成れないのを悟ったら、要所このときにだけ強く在ろう強く居ようとする方が可能な気がしてがんばれる、それと同じように、完璧でなくても強く深く生きていく方法は他にもある。

泥を掻き出そうとしたその手で空気を掴んでじっと堪えたら、その手を合わせて深呼吸する。

その間に泥が湖底に溜まって静かになってくる。
静まれば泥は捲き上ることなく水はやがて澄み渡る。
水面は氷の様に波打ちもせず、終いには一枚の鏡の様になる。

泥が底に溜まってるから鏡になる。
底に何もなかったらただのガラス板だ。
泥があれば鏡になる。

鏡は皆んなを映し、映された者は己の姿を顧みることが出来る。

己を顧みる人を観て自分も顧みるから益々穏やかに自分の内側を慮ることができる。

そう。
まず、踠いて辺りを爪で引っ掻き回してたその手で、何かを掻かずに空気を掴んで手を合わせるんだ。
こっちの手は自分。
こっちの手は世界。

そう。
泥は持ったままで行こう。

完全な透明無垢でもなく、濁りきって二度と澄まない泥水でもなく、その間で中途半端に揺れながらその時々を懸命に保って生きる弥次郎兵衛の如く居よう。
白か黒かはっきりさせればそれは気持ちもよかろうが、白でも黒でもない色にこそ人の人たる厚み深みがあるんじゃないか。

慈しみとはそういうところから滲み出てくるものなんじゃないのか。

君はともだち

色々な道具を持っていて使っている。
僕の佛彫りは生業ではなくつまりプロではないから、色々使っていると云っても一流のものなどは何も持っていない。

時々、プロの方々が使っているものに憧れるし一般では使わないような便利で高価な道具を使っているのを知ると羨む。

先立つものもないし業余なのであまりふんだんに費用を注げない。だから持っているものも必然的に手に入る範囲での価格帯や入手難度になるしその中で納得できるものを手に入れて使うことになる。

だからといってそれが彫るものの結果の質に直結するとは思っていない。
結果が伴わないのは自分の腕が悪いからで、道具のせいではない。
確かに道具の良し悪しはあるし高価なものはただ高価なだけではなくその分の価値ある働きをすることは事実。でも道具の能力差は努力修練と作業時間を乗じて補うことが出来る可能性をある程度までなら持っていると僕は思っている。

僕は道具に名をつける。
道具は大切にすれば付喪神が憑くと信じている。大切に使えば、プロが鼻で笑うような安っい陳腐な道具でもちゃんと応えてくれると信じている。

だから名前を呼ぶ。
縁があって僕のもとに来て僕の目的に手を貸してくれるのだから、それは僕が選んで家に連れてきた時点で僕のともだち。
使っていて機能しないのは呼び方が足りないからであり使う僕の想いと鍛錬が足りないから。
だから、応えてくれるまで何度も大切に名前を呼び続け自分の腕の方を磨く。
道具を磨くのと同時にそれは自分の腕とひいては自分の心さえも磨いていることになるので、道具と一緒に自分も切磋琢磨していることになるんだと思っている。

悲しいことに道具にも寿命はあるから、ずっと一緒に居られるわけじゃない。人と同じ。
だから大切に想うし大切に使う。
人だって、一度でも多く名を呼んでもらえた人生の方がそうでないより幸せな生涯だったと思えると思う。
道具もそれは同じだと思うから。

形あるものを作っているけど、本当は、物理的には存在してない幻みたいなものを作っていて、実はそれが一番大切なもので、触れられないけど確かにそこに在って、それによって僕らの世界はつくられてるような気がする。

美しい花が物理的に存在しないのと同じ。
花は在るだけ。
それを美しい花だとするのはそう感じた心で、美しい花はその心にしか存在しない。

だから、ともだちはいつもここにいる。ここ。ここだよここ。

大切に呼ぶよ。

himawari

今日、今、その瞬間は、その一度しかない。
特別だろうがなかろうが、一度しかない。
ありふれたこの言葉のその本当の意味を、僕は理解していなかった。

もしあのとき打ち所が悪かったら、僕の家族は僕のいない人生を歩むことになっていたかもしれない。
明日、家族の誰かが事件に巻き込まれてしまったら、僕は家族の誰かがいない人生を送ることになるかもしれない。
明日何があるかなんて、誰にもわからない。

その何かがある日、もし喧嘩でもしていて、口も聞かず顔も見ず出かけたりしていたら、後悔どころの話じゃないほどの苦痛と苦悩で正気には戻れなくなるかもしれない。

だからか。

女房は、僕と一緒になってからずっと、ただの一度も欠かすことなく、僕や子どもたちが出かけるときには、必ず玄関先にまで出てきて顔を見て送り出す。
忙しくても、時間がなくても、たとえ些細なことで僕や子どもたちがヘソを曲げて機嫌を損ねていても、自分が誰かに腹を立てることがあっても、必ず。
一度として欠くことなく。

ああ、この人は解ってるんだ。
あの言葉の意味を。
いつ何があっても、後悔が少しでも小さくなるよう、そのときにしかないその一瞬を、想いを、大切にすくい取っておこうしてるんだ。

送り出した人がそのまま自分のもとに帰って来ることなく、二度と会うこともふれることもできなくなってしまったら。
はっとそれに気づいたとき、自分のどこでもいいからその人との刹那を刻みつけておかないと絶対後悔する、そう気づいて大切にしたくなる。

何でもない日常は、そういう刻みつけてきた大切な刹那の蓄積でできた奇跡の塊なんじゃないのか。

物事は大抵、失くしてからその大切さを知り、巻き戻せない時間の残酷さを知る。御多分に洩れず僕も、かつてそういう後悔を味わった。

二度とないその瞬間を、大切なものの何気ない表情を、精一杯、丁寧に、心に満たして生きていこう。

こんな言葉を何千と並べても足りないくらいに。

Cheap Cheap Endroll

今日から運慶展なんですね。だからこのところ運慶運慶とあちこちで云ってたわけですね。

佛像の展覧会で感じるのは、佛像が『展示』されてるってこと。
当たり前じゃんと仰るでしょう。そうですね、読んで字の如しです。そのままの意味です。

そう、『奉られてる』んじゃないですよね。

そうです当たり前ですよね、お堂や厨子ではないんだから。
それごと美術館に持ってくるわけにはいかないのはよく解ってます。
当たり前です。

だからやっぱり、最近はあんまり「何々展」という佛像の『展示』を見に行きたいとは、思わないんです。
― 見世物な気がして ―

いらっしゃるべきところに奉られているあなた様に手を合わせたい。
いつからか、展示室に『展示』されているほとけをみると、そう感じるようになってしまいました。
僕にはほとけを美術品としてみることができないので。

昔は拝みに行ってたんですけどね。

だいたい僕は。
本当に失敬な話、運慶さんを仏師だと思ってなくて。

あの人は人類史上屈指の彫刻家で芸術家、驚愕の強調写実の極みとも評すべき『作品』を生み出す世界が絶賛するアーティスト。
まるで目の前に生きた何者かが居るような存在感を発した『作品』は努力だけで生み出せる代物をとっくに超えた想像を絶する驚異の造形物。

でも。
あれらは、僕にとって『ほとけ』じゃない。

あの人の彫刻をみると、口をぽかんと開けて目が乾くまで瞬きをし忘れて見入るけど、それは超一流芸術家が造形した世界最高峰の『美術品』に心を奪われているというだけ。

自然と手を合わせこうべを垂れるような行為には、失礼極まりなくも、至らない。
ましてそれが厨子でも堂でもなく展示室に『展示』され、畏敬の念も畏怖もなく無遠慮に嘗め回すように見ることができてしまうとそれを『拝む』心は何処かへ吹っ飛んでしまう。

9年前、トーハクに薬師寺展に行ったとき、菩薩の前で手を合わせて拝むと、来館していた人たちに白い目で見られていたのを感じた。
同じように合掌礼拝しようとする人も2、3人居はしたが、寺院のそれとは明らかに違う雰囲気だったのを今でも覚えている。

話が混ざってしまった。

そういうわけで、今では佛像の『展覧会』には、あまり行かなくなったというお話。
そして、僕にとっての『仏師』、『佛を彫る人』とは、安阿弥様の快慶仏師であり、円空佛の円空上人であり、何故か自然と合掌礼拝して目をとじてしまうほとけを現代に残して逝った名もなき人々のこと。

でも、感じ方は人各々。

トビウオ

ものをつくるのが好きです。
古くなったペンケースを新調しようとしているところで、シンプルな構造の革でできたペンケースをネットでみつけてから、ああいうペンケースがほしいなあと思っていたところで、レザークラフトというものを知り、やってみようと思い立ってすぐ作ってみたのがこのペンケースです。

とりあえず挑戦してみようと思って作ってみましたが、意外とこのまま使ってみようかなという出来になりました自分で言うのもなんですが。

おもしろいですね。レザークラフト。
材料は、手芸屋さんで袋入りで売っていたはぎれのような端材の様な詰め合わせをひとつ買ってみたのであまり良い革ではないのかもしれませんが、手触りはとてもきもちいいです。

廿年も同じ仕事に従事していると道具というのは決まってくるものでして、筆記用具ももうほぼ変わらないです。ですからそれらを収納するものというのも必然的に形が決まってくるというわけで、そこに向かってただひたすらにシンプルにしていくと、こんな風になるのじゃないかなと思っています。

既製品市販品だといろいろなところで(おこがましくも)不満が出ます。一品一様でないものにはどうしてもある程度は万人に受けなくてはならないという商売の性が発生しますので、己の欲するものは己でつくってしまうのが一番いいのかもしれません。
そして、極力シンプルにしていこうとするのは、壊れるところをなるべく少なくすることにもなります。だからジッパーもスナップも使わない。革と糸だけの構造。

自分がつくって持つものに対して、代わりがきかないところまで愛せたら、それはすぐに付喪神になってくれるのではないか、そんな風にも思ったりします。

大切に長く一緒にいる道具が、あなたにもありますか。

ありがとう

人の子は大きくなるのが早いというが、己の子も同じようなものだ。
この前生まれてついこの前あたりまでミニバスだの部活だのとやっていたと思ったら、もう高校を卒業して来年には成人式だという。なんということか。己が歳を取るわけだ。

己の時もそうだった。
高校を卒業するのだといっても将来が決まっているわけでもなくやれることをやれるだけやってきただけであって、それだけしかやっていないのに、何もかも自分の努力で片づけてきたような気になって、真に『感謝』ということを知らなかった。

親元を離れ菜っ葉一枚から手に入れなくてはならない一人暮らしをして初めて、己のために家族がどれくらいのことをしてくれていたのか、それを18年間もずっと変わらず続けていてくれてきたという事実に驚愕し、生まれて初めて『感謝』の本当の意味を知る。

いや、もしかしたら、まだ『本当の感謝』を自分は知らないかもしれない。
生きてきた道すがら、いつもいつも、色んな人からたくさんの人から受けた様々なことに対して『初めての感謝』を感じてきたから、『本当の感謝』などまだまだ知らないのかもしれない。

我が子に想う。
”『ありがとう』といい続けられる人生を”
と。

卒業、おめでとう。

太陽の真ん中へ

生きている時間がかさんでくると感じることがある。

得たモノと失ったモノとを差し引きすると、どうしたってマイナスになる。
生きれば生きるほど。

物理的物質的なものはそれでいい。
禅的にいうならその方が人間らしくもあるかもしれない。

でも精神的には、失くしたモノが増えていくのはやっぱりさみしい。

でも、だからこそ、差し引きしたらマイナスになってしまう陰に隠れてひっそりと、得たモノたちが自分の中にしっかりといることを、忘れちゃいけない。

自分の「明日という時間」が来る限り、得てきたモノが作った昨日までの自分で歩いていけるんだから。
そしていつか、跳ぶんだ。

そして、飛ぶんだ。

Letter From Home

最近、よく考えることがある

これまで多くの人がくださったもののお陰で何の不自由もなく困窮することもなく生きてくることが出来た

形の在るものもないものもすべてが残らずぼくという形をした時間の塊を組み立てるための欠片となって組み合わさり、それが過去になるたびに堆積して足元に積み重なり、今このときを支える基礎土台となってくれているのでぼくはここに立っていられる

だから

何とか、生きているうちに少しでも多く
一握りでも多く
一粒でも多く
一滴でも多く

この恩を返していくにはどう生きたらいいか

そんなことを、よく考える

ラフ・メイカー

損だ得だと血眼になっていつも自分が一番可愛い
人の喜びは後回しまずは自分が喜んでから

そんな人々が跋扈しながら互いに噛みつき引き裂きあう世で
人の笑顔が大好きだと云いみんなの為に生きてきて
喜ばれながら生きているのに自分の笑顔が見つからない

誰かの悲しい声が聞こえては助けになろうと探して歩いて
それが自分の心の声だとこれっぽっちも思わなかった

少し休もうとぼくが云ってもにっこり笑って小さく手を振る
疲れきってて重々しくて顔で笑っても心は泣いてる

己を勘定に入れない人よ
あなたの笑顔がぼくはみたい

口角を上げてほしいんじゃない
目じりを下げてほしいんじゃない

泣いてほしい叫んでほしい疲れたもうヤダと暴れてほしい
そのあとで出る止めどない感覚に身を任せたときのあなたの顔を

己を勘定に入れない人よ
あなたは人の笑顔を望む
ぼくはあなたの笑顔を望む
ぼくの笑顔がほしいなら
あなたの笑顔を探しにいこう

己を勘定に入れない人よ
ぼくがあなたを勘定に入れよう

いつも後回しになったまま洗うことのなかったその手袋を
ちょうだい
今から洗うから