himawari

今日、今、その瞬間は、その一度しかない。
特別だろうがなかろうが、一度しかない。
ありふれたこの言葉のその本当の意味を、僕は理解していなかった。

もしあのとき打ち所が悪かったら、僕の家族は僕のいない人生を歩むことになっていたかもしれない。
明日、家族の誰かが事件に巻き込まれてしまったら、僕は家族の誰かがいない人生を送ることになるかもしれない。
明日何があるかなんて、誰にもわからない。

その何かがある日、もし喧嘩でもしていて、口も聞かず顔も見ず出かけたりしていたら、後悔どころの話じゃないほどの苦痛と苦悩で正気には戻れなくなるかもしれない。

だからか。

女房は、僕と一緒になってからずっと、ただの一度も欠かすことなく、僕や子どもたちが出かけるときには、必ず玄関先にまで出てきて顔を見て送り出す。
忙しくても、時間がなくても、たとえ些細なことで僕や子どもたちがヘソを曲げて機嫌を損ねていても、自分が誰かに腹を立てることがあっても、必ず。
一度として欠くことなく。

ああ、この人は解ってるんだ。
あの言葉の意味を。
いつ何があっても、後悔が少しでも小さくなるよう、そのときにしかないその一瞬を、想いを、大切にすくい取っておこうしてるんだ。

送り出した人がそのまま自分のもとに帰って来ることなく、二度と会うこともふれることもできなくなってしまったら。
はっとそれに気づいたとき、自分のどこでもいいからその人との刹那を刻みつけておかないと絶対後悔する、そう気づいて大切にしたくなる。

何でもない日常は、そういう刻みつけてきた大切な刹那の蓄積でできた奇跡の塊なんじゃないのか。

物事は大抵、失くしてからその大切さを知り、巻き戻せない時間の残酷さを知る。御多分に洩れず僕も、かつてそういう後悔を味わった。

二度とないその瞬間を、大切なものの何気ない表情を、精一杯、丁寧に、心に満たして生きていこう。

こんな言葉を何千と並べても足りないくらいに。

Cheap Cheap Endroll

今日から運慶展なんですね。だからこのところ運慶運慶とあちこちで云ってたわけですね。

佛像の展覧会で感じるのは、佛像が『展示』されてるってこと。
当たり前じゃんと仰るでしょう。そうですね、読んで字の如しです。そのままの意味です。

そう、『奉られてる』んじゃないですよね。

そうです当たり前ですよね、お堂や厨子ではないんだから。
それごと美術館に持ってくるわけにはいかないのはよく解ってます。
当たり前です。

だからやっぱり、最近はあんまり「何々展」という佛像の『展示』を見に行きたいとは、思わないんです。
― 見世物な気がして ―

いらっしゃるべきところに奉られているあなた様に手を合わせたい。
いつからか、展示室に『展示』されているほとけをみると、そう感じるようになってしまいました。
僕にはほとけを美術品としてみることができないので。

昔は拝みに行ってたんですけどね。

だいたい僕は。
本当に失敬な話、運慶さんを仏師だと思ってなくて。

あの人は人類史上屈指の彫刻家で芸術家、驚愕の強調写実の極みとも評すべき『作品』を生み出す世界が絶賛するアーティスト。
まるで目の前に生きた何者かが居るような存在感を発した『作品』は努力だけで生み出せる代物をとっくに超えた想像を絶する驚異の造形物。

でも。
あれらは、僕にとって『ほとけ』じゃない。

あの人の彫刻をみると、口をぽかんと開けて目が乾くまで瞬きをし忘れて見入るけど、それは超一流芸術家が造形した世界最高峰の『美術品』に心を奪われているというだけ。

自然と手を合わせこうべを垂れるような行為には、失礼極まりなくも、至らない。
ましてそれが厨子でも堂でもなく展示室に『展示』され、畏敬の念も畏怖もなく無遠慮に嘗め回すように見ることができてしまうとそれを『拝む』心は何処かへ吹っ飛んでしまう。

9年前、トーハクに薬師寺展に行ったとき、菩薩の前で手を合わせて拝むと、来館していた人たちに白い目で見られていたのを感じた。
同じように合掌礼拝しようとする人も2、3人居はしたが、寺院のそれとは明らかに違う雰囲気だったのを今でも覚えている。

話が混ざってしまった。

そういうわけで、今では佛像の『展覧会』には、あまり行かなくなったというお話。
そして、僕にとっての『仏師』、『佛を彫る人』とは、安阿弥様の快慶仏師であり、円空佛の円空上人であり、何故か自然と合掌礼拝して目をとじてしまうほとけを現代に残して逝った名もなき人々のこと。

でも、感じ方は人各々。

トビウオ

ものをつくるのが好きです。
古くなったペンケースを新調しようとしているところで、シンプルな構造の革でできたペンケースをネットでみつけてから、ああいうペンケースがほしいなあと思っていたところで、レザークラフトというものを知り、やってみようと思い立ってすぐ作ってみたのがこのペンケースです。

とりあえず挑戦してみようと思って作ってみましたが、意外とこのまま使ってみようかなという出来になりました自分で言うのもなんですが。

おもしろいですね。レザークラフト。
材料は、手芸屋さんで袋入りで売っていたはぎれのような端材の様な詰め合わせをひとつ買ってみたのであまり良い革ではないのかもしれませんが、手触りはとてもきもちいいです。

廿年も同じ仕事に従事していると道具というのは決まってくるものでして、筆記用具ももうほぼ変わらないです。ですからそれらを収納するものというのも必然的に形が決まってくるというわけで、そこに向かってただひたすらにシンプルにしていくと、こんな風になるのじゃないかなと思っています。

既製品市販品だといろいろなところで(おこがましくも)不満が出ます。一品一様でないものにはどうしてもある程度は万人に受けなくてはならないという商売の性が発生しますので、己の欲するものは己でつくってしまうのが一番いいのかもしれません。
そして、極力シンプルにしていこうとするのは、壊れるところをなるべく少なくすることにもなります。だからジッパーもスナップも使わない。革と糸だけの構造。

自分がつくって持つものに対して、代わりがきかないところまで愛せたら、それはすぐに付喪神になってくれるのではないか、そんな風にも思ったりします。

大切に長く一緒にいる道具が、あなたにもありますか。

ありがとう

人の子は大きくなるのが早いというが、己の子も同じようなものだ。
この前生まれてついこの前あたりまでミニバスだの部活だのとやっていたと思ったら、もう高校を卒業して来年には成人式だという。なんということか。己が歳を取るわけだ。

己の時もそうだった。
高校を卒業するのだといっても将来が決まっているわけでもなくやれることをやれるだけやってきただけであって、それだけしかやっていないのに、何もかも自分の努力で片づけてきたような気になって、真に『感謝』ということを知らなかった。

親元を離れ菜っ葉一枚から手に入れなくてはならない一人暮らしをして初めて、己のために家族がどれくらいのことをしてくれていたのか、それを18年間もずっと変わらず続けていてくれてきたという事実に驚愕し、生まれて初めて『感謝』の本当の意味を知る。

いや、もしかしたら、まだ『本当の感謝』を自分は知らないかもしれない。
生きてきた道すがら、いつもいつも、色んな人からたくさんの人から受けた様々なことに対して『初めての感謝』を感じてきたから、『本当の感謝』などまだまだ知らないのかもしれない。

我が子に想う。
”『ありがとう』といい続けられる人生を”
と。

卒業、おめでとう。

太陽の真ん中へ

生きている時間がかさんでくると感じることがある。

得たモノと失ったモノとを差し引きすると、どうしたってマイナスになる。
生きれば生きるほど。

物理的物質的なものはそれでいい。
禅的にいうならその方が人間らしくもあるかもしれない。

でも精神的には、失くしたモノが増えていくのはやっぱりさみしい。

でも、だからこそ、差し引きしたらマイナスになってしまう陰に隠れてひっそりと、得たモノたちが自分の中にしっかりといることを、忘れちゃいけない。

自分の「明日という時間」が来る限り、得てきたモノが作った昨日までの自分で歩いていけるんだから。
そしていつか、跳ぶんだ。

そして、飛ぶんだ。

just the way you are

心の中に、物質に依らない幸せの器を彫るんだ
 
 
―こころやすらかに暮らし生きるために―

Letter From Home

最近、よく考えることがある

これまで多くの人がくださったもののお陰で何の不自由もなく困窮することもなく生きてくることが出来た

形の在るものもないものもすべてが残らずぼくという形をした時間の塊を組み立てるための欠片となって組み合わさり、それが過去になるたびに堆積して足元に積み重なり、今このときを支える基礎土台となってくれているのでぼくはここに立っていられる

だから

何とか、生きているうちに少しでも多く
一握りでも多く
一粒でも多く
一滴でも多く

この恩を返していくにはどう生きたらいいか

そんなことを、よく考える

ラフ・メイカー

損だ得だと血眼になっていつも自分が一番可愛い
人の喜びは後回しまずは自分が喜んでから

そんな人々が跋扈しながら互いに噛みつき引き裂きあう世で
人の笑顔が大好きだと云いみんなの為に生きてきて
喜ばれながら生きているのに自分の笑顔が見つからない

誰かの悲しい声が聞こえては助けになろうと探して歩いて
それが自分の心の声だとこれっぽっちも思わなかった

少し休もうとぼくが云ってもにっこり笑って小さく手を振る
疲れきってて重々しくて顔で笑っても心は泣いてる

己を勘定に入れない人よ
あなたの笑顔がぼくはみたい

口角を上げてほしいんじゃない
目じりを下げてほしいんじゃない

泣いてほしい叫んでほしい疲れたもうヤダと暴れてほしい
そのあとで出る止めどない感覚に身を任せたときのあなたの顔を

己を勘定に入れない人よ
あなたは人の笑顔を望む
ぼくはあなたの笑顔を望む
ぼくの笑顔がほしいなら
あなたの笑顔を探しにいこう

己を勘定に入れない人よ
ぼくがあなたを勘定に入れよう

いつも後回しになったまま洗うことのなかったその手袋を
ちょうだい
今から洗うから

Wherever you are

IMG_0664熊本地震でお亡くなりになった方々のご冥福を、未だ余震の続く中で不安な避難生活を強いられている方々の一刻も早い安寧を、心からお祈りしています。

祈るばかりで何の力にもなれません、遠く離れていて何の手助けもできません。
せめて、ほんの一握りの気持ちでしかなくとも、届けようと思います。

何処に居ても、求める人の聲が、それに応えられる人のもとに届けられるよう、そしてそれが叶えられていくよう、祈っています。

「平成28年熊本地震」緊急募金。最大震度7を観測した大地震の被災者に支援を – Yahoo!ネット募金 http://docs.donation.yahoo.co.jp/report/kumamoto.html

熊本地震による災害へのマイル寄付を承ります/ANAマイレージクラブ
https://www.ana.co.jp/amc/news/info/201604/mileage-donation/

「平成28年熊本地震」被災者支援マイル/JALマイレージプログラム
https://www.jal.co.jp/jalmile/use/charity/kmjeq2016/

「ゆうちょ 義援金の手数料無料」
一連の地震を受けて、ゆうちょ銀行は日本赤十字社の義援金口座宛に無料で送金できる取り組みを始めました。
宛先の口座は「日赤平成28年熊本地震災害義援金」で口座番号は「00130-4-265072」です。
今年6月30日まで、ゆうちょ銀行の窓口から送金を行った場合、手数料が無料になります。
ATM=現金自動預け払い機での振り込みは有料となります。
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20160418/4630231.html

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NHK各地域災害情報/NHK ONLINE
http://www5.nhk.or.jp/saigai/index_fd.html

コロニー

3/7から出張で台湾に来ている。

今日は午後遅くからの任務の為、午前は高雄の街を歩いてみた。
去年に同じような任務で訪れた時と比較すると、206地震の影響は、見られるどころか、日本を訪れ爆買いしていく大陸の観光客らしき人たちが多く見受けられるくらい、大きな暗い影響があるようには見えない。
平日のこの日中から観光客をたくさんみる。

元々の観光客数がどれほどのものなのかを知らないので何とも比較できないが、地震による観光を控えるムードというものは、この人の数を感じると、それほど感じない。

しかし、昨日まで滞在した台北や去年のここの様子と比較すると、日本人の数もそれほど感じない。ぱっとみでわかるのかと聞かれると怪しいが、感覚的にそんな気がする。

地震による大きな被害があったのは、手抜き工事があったビルや耐震強度が低い古い建物だけだったようで、台南のその辺り一帯が壊滅というわけではないらしい。

ライフラインも今はもう大きな問題はなくなっているらしく、恒久的な復旧の作業が始まっているということのようだ。
だとしても、倒れた建物のほとんどは住宅だそうで、住む家が失われた人が多くいることに変わりはないはずだ。

それらの人たちが今どうやって暮らしているのかは、今この時点では知る術がない。現地での報道もそれほど多くされていない。早くも風化の雰囲気を感じてしまう。

そんな中で驚かされるのは、一緒に仕事をしてくれている現地の商社さんの言葉だった。
自国の災害よりも日本の、友好国の大災害のあった日が近いこと、それを憂い一緒に悼んでくれていることだった。

他外国とは少し違う面はあったにしても、植民地として統治された時代もあった日本に対して、現在こうして共にいて同じ仕事をしている者同士が、今起こっている互いの国の苦難に対して目を背けることなく慈しむことができるのは、これまでの、僕らが知らない過去の時代の中においても、互いを思いやって様々に困難な道のりを共に歩んだ二国の友があったからだろう、そういう、名も残っていない人たちの行いの積み重ねによって出来上がった友好なのかもしれない、そんな風に僕は今、感じている。

昔、台湾の人と関わったかつての日本人の誰かはきっと、今の僕と同じようにあたたかい想いをもらって、この国のあたたかい人たちと一緒に何かを成してきたんだろうか。そうだったら、いいな。

東日本大震災もそう、忘れないようにする努力は、僕には必要ない。
忘れられるはずがない。

甚大な数の人がそこで見つけたもの、失ったもの、それを差し引きしたら、数の上ではマイナスになってしまうのが生きるということなのかもしれない。

しかし、数の差し引きだけで人の心は決まらない。

失くしたものと生まれたものは、その数よりも、ひとつひとつの大きさ濃さ強さ様々な固有の要素があって、それをふまえて勘定したら、そう、そうだ、そうなんだ。。

目を閉じて手を当てて想い直すと感じられる。

逃げられない天災が僕らを閉塞する星にいても、僕らは、手をつないで歩めば、心の中にどんなに広く大きなものも、創造していける。

無限は外にはない。

いや、外も内もない。

僕らはひとつだ。
有難う。

生まれてきてよかった。

ー 高雄 寒軒國際大飯店にて

台湾に関する補足参考
http://honyakusitem.blogspot.tw/2013/10/blog-post_10.html?m=1