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firefly

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うまく文字で表現できず誤解を生ずるかも知れないが単刀直入に書くと

『自分がやっている事やろうとしている事は芸術美術ではない。アート作品を作っているのではない。自分は芸術家にも表現者にもなろうとはしていない』

オリジナリティとか自分らしさとか独創性とか他にないものとか。
一目見ただけでこれは自分が生み出したものだとわかるものを作り出すとか。

そういう事はそういう事を追い求めている方々にお任せする。
自分はそういう事のために彫っているわけではないしそういうことにまったく興味がない。

己の作品を広く世に知らしめその中に他者とは違う何かの存在を世に誇示しそれを目にした多くの人がそのオリジナリティを評価し認める、そういったサイクルに身を置き生業とするのならそれは当然必要なことであろうし、それを成り立たせなくては生き残ってはいけないしそれを生活の糧として生きていくことは到底不可能だろう。

だが自分はそういう世界に興味がない。そんなことのために刀を握って木を彫っているのじゃない。
自分にとっての佛とは、佛像とは、まったくその存在の意味を異とする。

救われるべくしてそこに居る人が在り、その人が一心に手を合わせ祈る先にあるもの『佛』は、誰かの表現意志のこもった『美術作品』であったらおかしいのではないかと自分は考える。

祈りを受けとめる器のようであるべきもの、それが佛像であると自分は考える。

祈る者の想いを受けとめる佛は、それそのものが何かを主張するものではなく、手を合わせる者の鏡でなくてはならないと考える。特定の誰かが彫ったものだと一目でわかる特徴的なものであったり彫った者の『らしさ』が宿っているもの即ち表現者の『作品』である事に自分は大きな違和感を抱く。

技巧、技術、そういったものの素晴らしさはとてもよく理解できるし、美術作品、仏教美術としての仏像というものが現世まで守られてきたことへの感謝は無論、在る。著名な仏師である定朝や慶派仏師の面々の素晴らしさもよくわかるし、快慶の彫る仏像はとても好きだ。

だが、云ってしまえば、『芸術作品』として人を慄かせ感嘆の声が出てしまうようなものに対して、静かな心で自然と手を合わせ拝むという行為に至ることは、自分はまず、ない。
『これは自分の作品だ』と誇示する人間が彫った佛を、どうして拝むことができようか。

その前に坐したとき、心が落ち着き自然と両の掌が合わさり知らぬ間に拝んでいるという心情に自分をしてくれる佛像には、何の主張も誇示もない。誰が彫ったものかなどと考えさせない。ひとしきり拝んだ後で軽くなった心を思いやり、その佛を彫った者とこれまで守り残してくれた者への感謝が湧き出てくる。そこで初めて、どんな人が彫ったのだろうな、と思慮するのだ。

僕が彫った佛だなんて、わかる必要はない。
そんなことは、どうだっていい。
僕らしい佛など、彫ろうと思っていないのだよ。

観る者がただ無心になり思わず手を合わせ拝んでしまう佛。
観ていると手に取って触れて撫でずには居れない佛。

そんな佛を彫りたいのだ。
たくさんたくさん、彫りたいのだ。