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SISTER

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ものを作るとき、よく『魂を込める』という云い方を耳にする。
そういう話になる度に自分は、このように話す。

「自分が彫る仏像に、魂は込めません」

自分の想いは、こうだ。

すべてのものは元々が佛であり、佛が姿を変えてそこに在るものである。
木も然り。
木は、彫る者が彫る前から佛であり、何も手を入れなくても佛である。
しかし、人は兎角見えるもの聞こえるもの触れるものに心を奪われがちでなので、唯の木片をみてもそれが佛だとは感じにくい。
故に、佛はここそこにおわすということを感じやすくするために古来、人は木を石を佛の姿に彫ってきた、と、そのように自分は考える。

そうすると、自分が彫る木ももれなく元々が佛であるのだから、自分の魂を込める必要はない。
強いて云うなら、仏像を彫りあげ安置する場所が決まったらその場所で僧侶に開眼法要をして戴くことで魂が入るのだということが云えると思っている。
彫る人間が己の魂をこめなくとも、木には元々魂は宿っている。そしてそれも仏性の一つだという考え方だ。

更に云うなら、元からそうして備わっている仏性の上に彫っている自分の魂など放り込んでも何の意味もない。
彫りおこされた仏像は、彫る自分としても拝まれるものになってほしい。その希望通り、方々に拝まれるようになったときに己の魂などがこもっていたら、まるで己が拝まれているようで烏滸がましい。

木は木で、自分は自分なのだ。
そして元々がすべて仏性を持ったものだとしたら、わざわざこめずとも良いのではないか。

そして、こめないが、削る。
魂は、削るものだと思っている。
祈りという形を成さない想いの塊を、彫るという行為を使って佛をお迎えするという形あるものに変換する。
その変換には己にとって途方もない量の燃料を消費する。
その燃料を、自分は魂と呼ぶ。

祈りが彫りに変換されるとき、魂は削られ燃やされていく。
結果お迎えした佛には、己の魂はこもっていない。
魂は祈りと共に天へと昇華し、そのエネルギーによって動かされた手がお迎えした佛だけがそこに残る。

魂は、削るもの。
そう、想っている。