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Cheap Cheap Endroll

今日から運慶展なんですね。だからこのところ運慶運慶とあちこちで云ってたわけですね。

佛像の展覧会で感じるのは、佛像が『展示』されてるってこと。
当たり前じゃんと仰るでしょう。そうですね、読んで字の如しです。そのままの意味です。

そう、『奉られてる』んじゃないですよね。

そうです当たり前ですよね、お堂や厨子ではないんだから。
それごと美術館に持ってくるわけにはいかないのはよく解ってます。
当たり前です。

だからやっぱり、最近はあんまり「何々展」という佛像の『展示』を見に行きたいとは、思わないんです。
― 見世物な気がして ―

いらっしゃるべきところに奉られているあなた様に手を合わせたい。
いつからか、展示室に『展示』されているほとけをみると、そう感じるようになってしまいました。
僕にはほとけを美術品としてみることができないので。

昔は拝みに行ってたんですけどね。

だいたい僕は。
本当に失敬な話、運慶さんを仏師だと思ってなくて。

あの人は人類史上屈指の彫刻家で芸術家、驚愕の強調写実の極みとも評すべき『作品』を生み出す世界が絶賛するアーティスト。
まるで目の前に生きた何者かが居るような存在感を発した『作品』は努力だけで生み出せる代物をとっくに超えた想像を絶する驚異の造形物。

でも。
あれらは、僕にとって『ほとけ』じゃない。

あの人の彫刻をみると、口をぽかんと開けて目が乾くまで瞬きをし忘れて見入るけど、それは超一流芸術家が造形した世界最高峰の『美術品』に心を奪われているというだけ。

自然と手を合わせこうべを垂れるような行為には、失礼極まりなくも、至らない。
ましてそれが厨子でも堂でもなく展示室に『展示』され、畏敬の念も畏怖もなく無遠慮に嘗め回すように見ることができてしまうとそれを『拝む』心は何処かへ吹っ飛んでしまう。

9年前、トーハクに薬師寺展に行ったとき、菩薩の前で手を合わせて拝むと、来館していた人たちに白い目で見られていたのを感じた。
同じように合掌礼拝しようとする人も2、3人居はしたが、寺院のそれとは明らかに違う雰囲気だったのを今でも覚えている。

話が混ざってしまった。

そういうわけで、今では佛像の『展覧会』には、あまり行かなくなったというお話。
そして、僕にとっての『仏師』、『佛を彫る人』とは、安阿弥様の快慶仏師であり、円空佛の円空上人であり、何故か自然と合掌礼拝して目をとじてしまうほとけを現代に残して逝った名もなき人々のこと。

でも、感じ方は人各々。