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立松和平さんの著書『鳩摩羅什 法華経の来た道』を読みました。

その中に、三草二木の譬え(たとえ)というお話が出てきます。
釈尊が弟子たちにした色々なたとえ話の一つだそうです。

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山には大きな木や小さな花など様々な草木が生きている。そこに降る雨は彼らにあまねく平等に降り注いでいるが、彼らはその大きさの差ゆえに受け取れる雨の量はそれぞれ違ってしまう。しかし、受け取れる雨の量が違っても、大きくても小さくてもそれぞれが受け取った雨によって潤い彼らは成長し、各々が輝いて生きている。大きな木が小さな木を見下すこともしない。小さな花が大きな草を恨んだりもしない。

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人の世においてもほとけの慈悲は等しく世に降り注ぐ。持って生まれた資質や能力が違っても、降り注ぐものを受け止められるなら皆それぞれの形で悟りを開くことができるのだよ、というお話、と、自分は理解しました。

と、頭では解ったつもりになっても、実生活の中でこれが生きるためには、まだまだ人として足りないわけですが、それでも、こういう考えは捨てずに、ただの理想だと鼻で笑わずにいつか自分もそう在りたいです。

形あるものばかりに価値がおかれ、見えないもの形のないものが軽んじられる文明社会ですが、実は、物理的な利便性や他人に対する優位性や経済活動や金銭といったものは、得れば得るほどまた得たくなり際限なく欲がわいてくるものです。満足することはきっとありません。

そこに心の安寧はあるでしょうか。

三草二木の譬えは、物理的経済社会に慣れ過ぎて本来の安寧を忘れてしまった”古い地球人”への戒めとも取れるお話なのではないかとさえ感じます。

物事は、材料(因)とそれに及ぼされる作用(縁)によってできるもの(結果)なのだそうです。ですから、材料が同じでも及ぼされる作用が少しでも違えば結果は変わります。
作用は時でも場所でもあらゆる状況で千差万別です。つまり、結果はどうにでも変化し常に一定ではないということです。
これが所謂”空(くう)”であり、自分の中の在り様でどのようにでもとらえられるということなのだと思います。

二千年以上も前にこれをもっともっと深く悟っていた釈尊。
千数百年前にその釈尊の教えを深く理解し他国へ伝え後世に残そうと生涯をささげた鳩摩羅什。
”空”を理解し、常に固まらずに生涯を送った彼らは、今を生きる僕ら現代人なんかよりずっと”最先端の人”だったんじゃないか。
そしてこれからもずっと、一番”新しい地球人(NewType)”で在り続けるんじゃないだろうか。