ガラスのブルース

 祈ったって届かなけりゃ意味がないとか

叶わなかったらしかたないとか

こんなことしたって何も変わらないとか

ときどき考えたりする

こんなことに自分の時間をすべて使ってやる意味なんかあるのかって聞かれたら

こたえるよ

しらないよそんなこと、って

終わってみないとわからない、過ぎてみないとわからない
だから僕はいつも

1秒も無駄にしないように

だから僕は

祈る

意味なんかない

意味なんか、いらない

 

supernova

莫迦だから、無くさないと気づけない

朝、起き上がれること
食事が出来ること
歩けること
見えること
聴こえること
寝られること
健康
友達
恋人
家族
独りじゃないこと
生きてること
笑えること
平和

莫迦だから、無くして初めてその存在の本当の大切さと非凡さに気づくんだ
心からそういってる人が世界にはこんなに沢山いるんだから
無くす前に気づかなきゃ

あの人がいうように世は一切皆苦なんだとして
想い出よりも未来よりも
今このときに在る、数えるほどもない刹那の幸せを噛み締めていかなくちゃ
気づく前に無くしてしまう

気づいて掴んで刻み込んで
今の刹那を積み重ねられれば
いつか来る、無くさなきゃならないそのときが来ても
無くすのはその姿形だけですむ

想えばいつでも
それはここにある

もう絶対に、無くしたりしない
莫迦だから
無くさないようにしよう

この手に握れる分だけのほんの少しの幸せを
無くす前に刻み込む

無くしてからじゃ、遅いんだ
無くしてからじゃ、、

花の名

よくいう客観視ということ
木を見て森を見ず、などと

そう見る自分が現れたことに気づくと、またその先に気づくものがある

物事に相対している自分
俯瞰して客観視している自分

ここにある二面性
その二面を分かつもの

隔たりを齎している何か

混沌としたものの中に混在する様々なこと
それらがぶつかりあって起こる矛盾に打ち拉がれ納得できず苛まれてしまっても

矛盾するように見える互いの境界も
己を鞭打つ物事と己の間の隔たりも
それがなければ己はない
己があるからそれが在る

一方だけでは存在し得ないもの
互いに在ることで生まれるということ

ぶつかり合い
互いの存在を確認し合うことで
互いが無ければ己もその間に生まれる事象も存在し得ないことに気づく

気づいたときにだけ観える音がある

特別などない
唯一などない
普通などない
同等などない

無い、も、ない

在るし、ない

ぼくも
あなたも
たくさんの何かと何も変わらない

隔てているものなど
はじめから、ない

 

あなただけに観える音が
ぼくにも観えているから

3月9日

あなたがここにいる
そう感じることが出来る僕がここにいる

だからこそ

僕はここに在れる
そう、感じられる喜びを知ったとき
どれほど嬉しかったことか
どれほど強く居られたことか

もっと深く噛み締めなくては
二度とないこの時を刻みつけておかなくては

この世という魂のいとまは、直ぐに終わってしまうから
くだらないすべてのことに
かまけている時間はない

あなたが在るから
僕は在れる
それを深く刻む

そして、あなたにとって
僕も
そうで在りたい

虹を待つ人

去年の冬、二月くらいだっただろうか。
夜半ふと、ただ感じたままに何も、頭では何も考えもしないで言葉を綴り、そこに『明日も良い日に出来るように』と祈りを込めて、twitterとfacebookに投稿した。

それは、誰かに語りかけるように書いておきながら、実は自分に言い聞かせているだけの言葉で、大切なことを置き去りにしたまま日々を時間をぞんざいに扱ってしまいがちな自分への戒めにも似たもので、自分の言葉でありながらもそこに深い思慮をおぼえ、日々を丁寧に暮らすことの足掛かりになればと、書いた翌日になって思い始めたのだった。

それから、朝起きると、必ず考えるようになった。

『あなたの今日が良い日に出来ますように』

あなたとは、あなたのことでありながら、自分の、僕のことだ。
だから僕は、日々を、時間を、湯水のように使って感謝のない行動をしてしまいそうなときしてしまったとき、この言葉らをたまに読み返すのだ。

偉そうな文章だ、と感じる方がいれば、ここで謝っておきたい。
あなたに対して偉そうな口をきいているわけでは、ありません。
賢しらな言い草でも、あなたを正そうなどと、思っていません。
己への戒め、奢る己への鉄槌のつもりで、書いています。

そんな言葉らを、ちょこ☆さんという方がtogetterで「#あなたの今日が良い日に出来ますように」というまとめを作ってくださった。
お陰様で言葉らをいつでもいくらでも読み直すことが至極容易になった。有難いことに、書いた日付も入っているので、いつどんなことを想いながら過ごしていたかが、よく思い出せる。

読み返すと蘇るものがあることで、忘れそうになるのをとどめることが出来る。
そうすることで、動くべきなのか、待つべきなのか、退くべきなのか、それともそのどれでもないのかを、また思慮する機会を持つことが出来る。

一年くらいやったらネタも尽きてくるだろうし、終わりにしようかな、と思っていたが、日々想うことはなかなか尽きぬものだ。
それは、己がまだまだ未熟であり考えることが日々溢れ、己がよりよくなっていかねばならないそうなっていきたいという想いがあるからに他ならない、と、感じる。

良くも悪くも、自分はまだまだなのだ。
だからもう少し、続けてみようかと思う。

いつかその袂を掘って本当にお宝が埋まっているのか確かめてみたいのだ。

だから今日も僕は、僕の今日を良い日に出来たかどうかを想い返しながら、待っている。

 
 
 
虹がたつのを。

それでもなおできることのすべてを君に

今日物事は餘りに簡単にその仕組みと結果だけを知ることが出来るために、その生い立ちやそこに至るまでの工程を知らずに僕らは居れる。
その結果を得ようとした先人たちがどのように試行錯誤しどれ程の失敗を重ねどれだけの悔恨を経てそこに辿り着いたのか、その追体験すらすることなく僕らはその結果だけを受け取る事が出来る今日に生きている。それは、食卓に並べられた肉や魚や穀物野菜が生き物として生を営んでいたその姿を忘れさせたまま僕らの食物としてでしかこの世に生を受けなかったかのように錯覚したまま生き物で在る事さえ認識される間のないまま淡々と消費されていくことにも当てはまる。

そこに至るまでの道程を知らずに物事の成果だけを享受して仕舞いにして良い程、物事は易くないはずだ。一人ひとりがそこに想いを馳せるだけでも世界の在り方は変わって来ると、僕は信じる。

小さなことだ、自分一人が気にしたところで大きな流れは何も変わらないし変えられないし変えられるなどと傲慢なことは思っていない。

だが、それでもなお、僕は口にする。
自分にできることのすべてを一所、懸命にすることでしか、自分がここに居る理由を見いだせないからだ。

自分と云う命の形をした時間と云うエネルギー体がここで為せることのすべてを出力し尽くすこと、それが、生きるということなのじゃないか。そんな風に、思っている。

たとえ小さな一粒なのだとしても、
世界にもらった命という名の時間の使い道を、間違えないようにするために。

三百六十五歩のマーチ

しあわせの扉はせまい?
そりゃあそうさ
ぼくもきみも、心が贅沢デブになってるからな
こんなにブックブクに太った心じゃ、どんな扉もせまく思うよ
この腹じゃ、しゃがもうにもしゃがめない

しあわせの隣にいても、わからない日もあるんだねって?
そりゃあそうさ
こんなに味の濃いものばかり、毎日毎日取り込んでるから
しあわせの味覚が鈍るんだ
何をみても何をきいてもおんなじことしか感じない

たった一日の断食でも
翌日ご飯が泣くほどうまい

欲しがる前から目の前にあるから
手にした喜びが薄すぎる
欲しがる前からたくさんあるから
ひとつ分では味がしない

一日一歩でいいんじゃないか?
ときには一歩に満たなくたって
踵が浮いてりゃ十分じゃないか?

三歩ゆずって二歩下がって五歩も後退することだって
あっても別に、いいんじゃないか?

 

しあわせは歩いてこない?
だから歩いていくんだねって?

歩き出す前に、ほらごらんよ
しあわせは、ここにあるよ

ここに。ほら。

ゴールデンタイムラバー

ほとけを彫ることが好きです。
毎日毎日飽きもせず懲りもせず祈りながら彫っています。

身体を動かすことが好きです。
毎日毎日飽きもせず懲りもせず無心になって鍛えてます。

一見、何の関係もないように思うでしょう?
毎日何キロも走ってみても彫刻の腕があがったりするものかと思うでしょう?
ほとけを彫るのに体力なんかいらんだろうと思うでしょう?
いくらバスケの審判員だからといってそんなに走る必要はないと思うでしょう?

ないと思います。
(ないのかよ

ほしいのは、体力ではないのです。
ほしいのは、筋力ではないのです。
ほしいのは、脚力でも心肺能力でもないのです。

強い心が、ほしいのです。

僕は、弱いので。

誰かが忘れているかもしれない僕らに大事な001のこと

押し入れの整理をしている最中なのに、出てきた懐かしい本を読みふけってしまってまったく整理が進まない症候群て、あります。ブログの整理をしていると、以前にこんな投稿を書いていたんだなあと、読み倒してしまうときがあるわけです。

「All The Things You Are」

これはもう3年も前になる投稿で、@marici_jpさん(twitter)がお話くださったことをつづって忘れぬよう心に刻んでおこうと思ったときのことを書いている投稿です。

「ほとけ来い」と呼ぶことをやめ、ただひたすらに坐禅行の如く彫り続けるようになったきっかけをくださった金沢のお坊さんのお話。

忘れていたわけではないけれどそれでも忘れないように改めて心に刻み直す。

恋する凡人

ブログとwebサイトを統合したのでこのブログコーナーに日常のことなども書いていこうかと思いました。その最初の投稿は、季節柄、手帳のこと。

これまで、DAIGOのE1302とほぼ日手帳を行ったり来たりして十数年経ち、今年はほぼ日手帳を使ってきました。

しかし毎年、何となしに「いい手帳ないかなあ」とふらふらと探すのがこの時節の恒例になりつつあります。

ほぼ日手帳については有名なのでどんなものかは省きます。

もう一方のE1302はというと、実はこれはただのメモ帳の最初に月間カレンダーが一年分ついただけというもので、メモ部には日付はもちろん、罫線がだーっとあるだけです。
実はこれが、僕が使うに当たってのミソでした。

上記二種でおわかりかと思いますが、基本的に一日一ページを使って公私ともにすべてを書き留めるスタイルで使います。
そうすると、ごくたまに、一ページに書き切れないときがあります。
ほぼ日手帳のときには、別の紙に書いたものを糊付けするというスタイルを取ります。
それが、E1302だと、日付をその日になってから書き込むので何ページでも使えます。

ただし、未来のページに何かを描こうという事は基本できません。その日まで何ページ使用するか不明だからです。

そんな使い方で、行ったり来たり定まらずに毎年ふらふらと変えてきました。

ところが。
本格的にスマートフォンを使いだした一昨年あたりから、スタイルが変わりつつありました。

Todoリストや備忘録は紙ベースのものをまったく使わなくなりました。
予定も基本的にスマートフォン上で管理するようになりました。

その場でさっとメモするというのはさすがにまだ紙ベースの方が都合が良いので、手帳は必要です。仕事の特性上、図や絵を描くことが多いので、手書きメモアプリでも少々手狭でページ送り等色々と不便利があったり、汚れた手でも気にならないメモの方法が欲しいので、紙の方がいいなというところがあるため、どうしてもスマートフォン(またはタブレット)だけでは事が足りないのは事実です。

しかし、それ以外の部分では、紙の手帳が活躍する場面が少なくなりました。

つまり、書き込む絶対量が減ったのです。
そうなると、一日一ページで十分になります。そうなると、選択肢はほぼ日手帳一択なのですが。。。

見ない情報が多いことと、お値段。
これが、ちょっと、という理由です。

シンプルに、月間予定があって一日一ページとなっていてくれればいいのにな、それだけでいいのにな、と。

それともう一つ、予定表と記録スペースは、別部品になっていてもいいかな、と。
つまり、予定用の手帳、月間+週間程度の小さな手帳を一冊。これを常に持ち歩き、予定とメモに活用する。
そして、一日一ページを日誌のように書くものを一冊。これは職場または自宅のデスクで落ち着いて書く。
こんなスタイルもありかな、と、思い始めました。

そうなると、手帳は、かなり多くの選択肢が広がります。売り場でニヤニヤしながら決めたらいい。
問題は日誌ですが、このようなスタイルのものを知りました。
エディターズシリーズ365デイズノート
これは、書き込む日付を自分でチェックして決める方式という風変わりなノートです。印字が薄いですが、左サイドに時間軸もあり、時系列でのメモも取れるよう作られているようです。何より、方眼ノートなのが一番の魅力です。

図や絵を描くのに、要素をブロック単位で区分けして書くのに、後できれいにみられるよう書くのに、方眼はとても重宝します。何を書くにも方眼ノートがとても好きだったので、そういう意味でもE1302よりもほぼ日手帳の方が好きだという事はありました。

そんなわけで、来年早々からはこのスタイルでやってみようかな。

と、こんなことを書いても、またいつの間にかほぼ日手帳かE1302に戻っていたりして。笑