さわれない歌

もしも、この眼が見えなくなったら
佛彫りはできるだろうか

常識的に考えたら
眺めて拝むものを彫るのに
その見た目がまったくわからず把握しようもない身体になったら
不可能だと誰もが云うだろう

しかし、本気でその状況を
全力で想像してみたら
僕は彫る事を止めないと思う

見えなくなってから彫ったものがこの生涯でたったのひとつも残せなかったとしても
それでも
僕は彫る事を止められないと思う

ならばどうやって彫るだろう

全力で想像してみたら
こんな風に彫るだろう

切っ先に指先を置いて
木の上を互いに共に滑らせながら
まるで木で刃を研ぐように
ときには指を刺し血を流し
途轍もない時間をかけて
まるで木で己を研ぐように

そんな風に彫るだろう

彫った木がどんな姿をしているのか
指先で撫でて観るだろう

見えない代わりに
観るだろう

そのときのために
観るということを鍛えよう
眼が在るうちに
見えるうちに

思い出せなくなるその日まで

五月、利き手指の手術を受けて一ヶ月の間何も彫れなかった。

九月、乗用車にはねられ二ヶ月の間満足に走れなかった

出来ないことが自分に様々なことを教え結果ずっとし続けているだけでは登ることのなかった道を案内され味わうことのなかった想いを感じられたことを今思い知っている。

小走りでも途中歩いてでも、自分の足で地を蹴って走れることの何と嬉しいことか。

力が満足に入らなくてもこの手で木を支えて鑿を握り締めて音を立てて木と話しほとけを彫り起こすことの何と喜ばしいことか。

一見して無駄に思えることも、実は無駄なことなどひとつもない。
回り道は、結局それが自分を伸ばす好機の道だったという仕掛けが、人生にはいたるところにあった。

本当の答えが出るのはかなり先の話だ。おそらくこの一生が終わるころだろう。もしかすれば答えが出ないかもしれない。だから、この身に起こるすべてのことを無駄扱いせず、打算的に過ごすことなく、数珠つなぎにしてこの心に絡げて暮らしていこう。

働くことも、走ることも、彫ることも、祈ることも
想うことも
すべてつながっている。

firefly

うまく文字で表現できず誤解を生ずるかも知れないが単刀直入に書くと

『自分がやっている事やろうとしている事は芸術美術ではない。アート作品を作っているのではない。自分は芸術家にも表現者にもなろうとはしていない』

オリジナリティとか自分らしさとか独創性とか他にないものとか。
一目見ただけでこれは自分が生み出したものだとわかるものを作り出すとか。

そういう事はそういう事を追い求めている方々にお任せする。
自分はそういう事のために彫っているわけではないしそういうことにまったく興味がない。

己の作品を広く世に知らしめその中に他者とは違う何かの存在を世に誇示しそれを目にした多くの人がそのオリジナリティを評価し認める、そういったサイクルに身を置き生業とするのならそれは当然必要なことであろうし、それを成り立たせなくては生き残ってはいけないしそれを生活の糧として生きていくことは到底不可能だろう。

だが自分はそういう世界に興味がない。そんなことのために刀を握って木を彫っているのじゃない。
自分にとっての佛とは、佛像とは、まったくその存在の意味を異とする。

救われるべくしてそこに居る人が在り、その人が一心に手を合わせ祈る先にあるもの『佛』は、誰かの表現意志のこもった『美術作品』であったらおかしいのではないかと自分は考える。

祈りを受けとめる器のようであるべきもの、それが佛像であると自分は考える。

祈る者の想いを受けとめる佛は、それそのものが何かを主張するものではなく、手を合わせる者の鏡でなくてはならないと考える。特定の誰かが彫ったものだと一目でわかる特徴的なものであったり彫った者の『らしさ』が宿っているもの即ち表現者の『作品』である事に自分は大きな違和感を抱く。

技巧、技術、そういったものの素晴らしさはとてもよく理解できるし、美術作品、仏教美術としての仏像というものが現世まで守られてきたことへの感謝は無論、在る。著名な仏師である定朝や慶派仏師の面々の素晴らしさもよくわかるし、快慶の彫る仏像はとても好きだ。

だが、云ってしまえば、『芸術作品』として人を慄かせ感嘆の声が出てしまうようなものに対して、静かな心で自然と手を合わせ拝むという行為に至ることは、自分はまず、ない。
『これは自分の作品だ』と誇示する人間が彫った佛を、どうして拝むことができようか。

その前に坐したとき、心が落ち着き自然と両の掌が合わさり知らぬ間に拝んでいるという心情に自分をしてくれる佛像には、何の主張も誇示もない。誰が彫ったものかなどと考えさせない。ひとしきり拝んだ後で軽くなった心を思いやり、その佛を彫った者とこれまで守り残してくれた者への感謝が湧き出てくる。そこで初めて、どんな人が彫ったのだろうな、と思慮するのだ。

僕が彫った佛だなんて、わかる必要はない。
そんなことは、どうだっていい。
僕らしい佛など、彫ろうと思っていないのだよ。

観る者がただ無心になり思わず手を合わせ拝んでしまう佛。
観ていると手に取って触れて撫でずには居れない佛。

そんな佛を彫りたいのだ。
たくさんたくさん、彫りたいのだ。

花泥棒

Facebook。

そこでしか繋がっていない人がいるのでやめられないというだけで。
もう最近は使うのが嫌で仕方ない。

重いし余計なものまでたくさん見せてくるし。

誰が何にいいねしたかなんてみたくないよ。重たい宣伝とか同意しないと次を読ませない何かとか。
飽きました、というのが正直なところなんだけど。

instant EGOIST

硯に溜まった水の中に墨を一滴たらせば忽ち水は黒くなる

池の水に墨を数滴たらしたところで池の水は真っ黒になりはしない

あなたは墨か

それとも水か

SISTER

ものを作るとき、よく『魂を込める』という云い方を耳にする。
そういう話になる度に自分は、このように話す。

「自分が彫る仏像に、魂は込めません」

自分の想いは、こうだ。

すべてのものは元々が佛であり、佛が姿を変えてそこに在るものである。
木も然り。
木は、彫る者が彫る前から佛であり、何も手を入れなくても佛である。
しかし、人は兎角見えるもの聞こえるもの触れるものに心を奪われがちでなので、唯の木片をみてもそれが佛だとは感じにくい。
故に、佛はここそこにおわすということを感じやすくするために古来、人は木を石を佛の姿に彫ってきた、と、そのように自分は考える。

そうすると、自分が彫る木ももれなく元々が佛であるのだから、自分の魂を込める必要はない。
強いて云うなら、仏像を彫りあげ安置する場所が決まったらその場所で僧侶に開眼法要をして戴くことで魂が入るのだということが云えると思っている。
彫る人間が己の魂をこめなくとも、木には元々魂は宿っている。そしてそれも仏性の一つだという考え方だ。

更に云うなら、元からそうして備わっている仏性の上に彫っている自分の魂など放り込んでも何の意味もない。
彫りおこされた仏像は、彫る自分としても拝まれるものになってほしい。その希望通り、方々に拝まれるようになったときに己の魂などがこもっていたら、まるで己が拝まれているようで烏滸がましい。

木は木で、自分は自分なのだ。
そして元々がすべて仏性を持ったものだとしたら、わざわざこめずとも良いのではないか。

そして、こめないが、削る。
魂は、削るものだと思っている。
祈りという形を成さない想いの塊を、彫るという行為を使って佛をお迎えするという形あるものに変換する。
その変換には己にとって途方もない量の燃料を消費する。
その燃料を、自分は魂と呼ぶ。

祈りが彫りに変換されるとき、魂は削られ燃やされていく。
結果お迎えした佛には、己の魂はこもっていない。
魂は祈りと共に天へと昇華し、そのエネルギーによって動かされた手がお迎えした佛だけがそこに残る。

魂は、削るもの。
そう、想っている。

Yes I am

場所ではない
モノではない
ときではない

環境のせいにしない
時代のせいにしない
人のせいにしない

喜びは
幸せは
己が内に
自らが感じるものだ

どこにいても
どんなときでも
周りがどうであろうと
みつけだせる

外に向かう光を内に向けて己を照らすのだ

そのとき吾は
間違いなく
幸せを感じられる

己次第

完全感覚Dreamer

身体の自由がきかない、とは、どれほどの苦しみだろう

己が身体なのにも関わらず、いうことをきかぬとは、どれほどの苛立ちだろう

いつどうなるかも知れぬ身体で
治ると誰も約束してくれぬ身体で

それでも愛おしい者たちのために心を砕いて生きるというのは、どれほどの強さだろう

想像を、絶する
どれだけ巡らせても
想像を、絶する

明日に向かって只管に生きるその人を、想う

己よ、燃やせ
お前も、燃やせ
魂を、燃やせ

燃やせ
燃やせ

いつも何度でも

自分、佛は彫るが宗教家じゃないんで色々当たると都度勉強する。
考えたらきりがないとは思っても一度は考えてみなくてはと思って学んだりする。

が、今のところは、宗教は縋るモノじゃなく、己が生まれ今を生きているということを感謝するモノだと考えている。

生んでもらって生かされていることを感じると有難くなるし、そうすると他の命を奪わないと生きられない自分に突き当りそうして生かしてもらっていることに感謝が生まれる。

だから、他者の命をむやみやたらに脅かすことなど到底考えなくなる。

そいつの私利私欲で自分の命を奪われたくは、ないからね。
大義名分振り翳されても、大切な者の命を無碍に奪われたく、ないからね。

だから、そういうことを他者に対してやりたくない、と、思うようになる。なった。切に。

これからあともう少し生かしてもらえることになってるんだとしたら、半世紀弱生かしてもらってもう十分幸福にしてもらったので、残りは感謝と恩返しと懺悔に充てたいと、思うようになった。今ここ。

Prelude

若い頃は
これまでは

得ること
身につけること
出来ることや持てるものを増やすこと

そうやって自分に何かを足し算していくこと
それが素晴らしいことなんだと
信じて疑わなかった

もしかしたらそれは
何か違うんじゃないか

斬り捨てること
只管に減じていくこと
歩みを止めないために必要なものだけを残して
惜しみ無く置き去ること

餘計なものを刮ぎ落としたところに残っているものこそが「其処」だとしたら

実は
引き算だったんじゃないか