0072

去年の冬、二月くらいだっただろうか。
夜半ふと、ただ感じたままに何も、頭では何も考えもしないで言葉を綴り、そこに『明日も良い日に出来るように』と祈りを込めて、twitterとfacebookに投稿した。

それは、誰かに語りかけるように書いておきながら、実は自分に言い聞かせているだけの言葉で、大切なことを置き去りにしたまま日々を時間をぞんざいに扱ってしまいがちな自分への戒めにも似たもので、自分の言葉でありながらもそこに深い思慮をおぼえ、日々を丁寧に暮らすことの足掛かりになればと、書いた翌日になって思い始めたのだった。

それから、朝起きると、必ず考えるようになった。

『あなたの今日が良い日に出来ますように』

あなたとは、あなたのことでありながら、自分の、僕のことだ。
だから僕は、日々を、時間を、湯水のように使って感謝のない行動をしてしまいそうなときしてしまったとき、この言葉らをたまに読み返すのだ。

偉そうな文章だ、と感じる方がいれば、ここで謝っておきたい。
あなたに対して偉そうな口をきいているわけでは、ありません。
賢しらな言い草でも、あなたを正そうなどと、思っていません。
己への戒め、奢る己への鉄槌のつもりで、書いています。

そんな言葉らを、ちょこ☆さんという方がtogetterで「#あなたの今日が良い日に出来ますように」というまとめを作ってくださった。
お陰様で言葉らをいつでもいくらでも読み直すことが至極容易になった。有難いことに、書いた日付も入っているので、いつどんなことを想いながら過ごしていたかが、よく思い出せる。

読み返すと蘇るものがあることで、忘れそうになるのをとどめることが出来る。
そうすることで、動くべきなのか、待つべきなのか、退くべきなのか、それともそのどれでもないのかを、また思慮する機会を持つことが出来る。

一年くらいやったらネタも尽きてくるだろうし、終わりにしようかな、と思っていたが、日々想うことはなかなか尽きぬものだ。
それは、己がまだまだ未熟であり考えることが日々溢れ、己がよりよくなっていかねばならないそうなっていきたいという想いがあるからに他ならない、と、感じる。

良くも悪くも、自分はまだまだなのだ。
だからもう少し、続けてみようかと思う。

いつかその袂を掘って本当にお宝が埋まっているのか確かめてみたいのだ。

だから今日も僕は、僕の今日を良い日に出来たかどうかを想い返しながら、待っている。

 
 
 
虹がたつのを。

0071

今日物事は餘りに簡単にその仕組みと結果だけを知ることが出来るために、その生い立ちやそこに至るまでの工程を知らずに僕らは居れる。
その結果を得ようとした先人たちがどのように試行錯誤しどれ程の失敗を重ねどれだけの悔恨を経てそこに辿り着いたのか、その追体験すらすることなく僕らはその結果だけを受け取る事が出来る今日に生きている。それは、食卓に並べられた肉や魚や穀物野菜が生き物として生を営んでいたその姿を忘れさせたまま僕らの食物としてでしかこの世に生を受けなかったかのように錯覚したまま生き物で在る事さえ認識される間のないまま淡々と消費されていくことにも当てはまる。

そこに至るまでの道程を知らずに物事の成果だけを享受して仕舞いにして良い程、物事は易くないはずだ。一人ひとりがそこに想いを馳せるだけでも世界の在り方は変わって来ると、僕は信じる。

小さなことだ、自分一人が気にしたところで大きな流れは何も変わらないし変えられないし変えられるなどと傲慢なことは思っていない。

だが、それでもなお、僕は口にする。
自分にできることのすべてを一所、懸命にすることでしか、自分がここに居る理由を見いだせないからだ。

自分と云う命の形をした時間と云うエネルギー体がここで為せることのすべてを出力し尽くすこと、それが、生きるということなのじゃないか。そんな風に、思っている。

たとえ小さな一粒なのだとしても、
世界にもらった命という名の時間の使い道を、間違えないようにするために。

0070

しあわせの扉はせまい?
そりゃあそうさ
ぼくもきみも、心が贅沢デブになってるからな
こんなにブックブクに太った心じゃ、どんな扉もせまく思うよ
この腹じゃ、しゃがもうにもしゃがめない

しあわせの隣にいても、わからない日もあるんだねって?
そりゃあそうさ
こんなに味の濃いものばかり、毎日毎日取り込んでるから
しあわせの味覚が鈍るんだ
何をみても何をきいてもおんなじことしか感じない

たった一日の断食でも
翌日ご飯が泣くほどうまい

欲しがる前から目の前にあるから
手にした喜びが薄すぎる
欲しがる前からたくさんあるから
ひとつ分では味がしない

一日一歩でいいんじゃないか?
ときには一歩に満たなくたって
踵が浮いてりゃ十分じゃないか?

三歩ゆずって二歩下がって五歩も後退することだって
あっても別に、いいんじゃないか?

 

しあわせは歩いてこない?
だから歩いていくんだねって?

歩き出す前に、ほらごらんよ
しあわせは、ここにあるよ

ここに。ほら。

0069

ほとけを彫ることが好きです。
毎日毎日飽きもせず懲りもせず祈りながら彫っています。

身体を動かすことが好きです。
毎日毎日飽きもせず懲りもせず無心になって鍛えてます。

一見、何の関係もないように思うでしょう?
毎日何キロも走ってみても彫刻の腕があがったりするものかと思うでしょう?
ほとけを彫るのに体力なんかいらんだろうと思うでしょう?
いくらバスケの審判員だからといってそんなに走る必要はないと思うでしょう?

ないと思います。
(ないのかよ

ほしいのは、体力ではないのです。
ほしいのは、筋力ではないのです。
ほしいのは、脚力でも心肺能力でもないのです。

強い心が、ほしいのです。

僕は、弱いので。

0068

押し入れの整理をしている最中なのに、出てきた懐かしい本を読みふけってしまってまったく整理が進まない症候群て、あります。ブログの整理をしていると、以前にこんな投稿を書いていたんだなあと、読み倒してしまうときがあるわけです。

「All The Things You Are」

これはもう3年も前になる投稿で、@marici_jpさん(twitter)がお話くださったことをつづって忘れぬよう心に刻んでおこうと思ったときのことを書いている投稿です。

「ほとけ来い」と呼ぶことをやめ、ただひたすらに坐禅行の如く彫り続けるようになったきっかけをくださった金沢のお坊さんのお話。

忘れていたわけではないけれどそれでも忘れないように改めて心に刻み直す。

0067

ブログとwebサイトを統合したのでこのブログコーナーに日常のことなども書いていこうかと思いました。その最初の投稿は、季節柄、手帳のこと。

これまで、DAIGOのE1302とほぼ日手帳を行ったり来たりして十数年経ち、今年はほぼ日手帳を使ってきました。

しかし毎年、何となしに「いい手帳ないかなあ」とふらふらと探すのがこの時節の恒例になりつつあります。

ほぼ日手帳については有名なのでどんなものかは省きます。

もう一方のE1302はというと、実はこれはただのメモ帳の最初に月間カレンダーが一年分ついただけというもので、メモ部には日付はもちろん、罫線がだーっとあるだけです。
実はこれが、僕が使うに当たってのミソでした。

上記二種でおわかりかと思いますが、基本的に一日一ページを使って公私ともにすべてを書き留めるスタイルで使います。
そうすると、ごくたまに、一ページに書き切れないときがあります。
ほぼ日手帳のときには、別の紙に書いたものを糊付けするというスタイルを取ります。
それが、E1302だと、日付をその日になってから書き込むので何ページでも使えます。

ただし、未来のページに何かを描こうという事は基本できません。その日まで何ページ使用するか不明だからです。

そんな使い方で、行ったり来たり定まらずに毎年ふらふらと変えてきました。

ところが。
本格的にスマートフォンを使いだした一昨年あたりから、スタイルが変わりつつありました。

Todoリストや備忘録は紙ベースのものをまったく使わなくなりました。
予定も基本的にスマートフォン上で管理するようになりました。

その場でさっとメモするというのはさすがにまだ紙ベースの方が都合が良いので、手帳は必要です。仕事の特性上、図や絵を描くことが多いので、手書きメモアプリでも少々手狭でページ送り等色々と不便利があったり、汚れた手でも気にならないメモの方法が欲しいので、紙の方がいいなというところがあるため、どうしてもスマートフォン(またはタブレット)だけでは事が足りないのは事実です。

しかし、それ以外の部分では、紙の手帳が活躍する場面が少なくなりました。

つまり、書き込む絶対量が減ったのです。
そうなると、一日一ページで十分になります。そうなると、選択肢はほぼ日手帳一択なのですが。。。

見ない情報が多いことと、お値段。
これが、ちょっと、という理由です。

シンプルに、月間予定があって一日一ページとなっていてくれればいいのにな、それだけでいいのにな、と。

それともう一つ、予定表と記録スペースは、別部品になっていてもいいかな、と。
つまり、予定用の手帳、月間+週間程度の小さな手帳を一冊。これを常に持ち歩き、予定とメモに活用する。
そして、一日一ページを日誌のように書くものを一冊。これは職場または自宅のデスクで落ち着いて書く。
こんなスタイルもありかな、と、思い始めました。

そうなると、手帳は、かなり多くの選択肢が広がります。売り場でニヤニヤしながら決めたらいい。
問題は日誌ですが、このようなスタイルのものを知りました。
エディターズシリーズ365デイズノート
これは、書き込む日付を自分でチェックして決める方式という風変わりなノートです。印字が薄いですが、左サイドに時間軸もあり、時系列でのメモも取れるよう作られているようです。何より、方眼ノートなのが一番の魅力です。

図や絵を描くのに、要素をブロック単位で区分けして書くのに、後できれいにみられるよう書くのに、方眼はとても重宝します。何を書くにも方眼ノートがとても好きだったので、そういう意味でもE1302よりもほぼ日手帳の方が好きだという事はありました。

そんなわけで、来年早々からはこのスタイルでやってみようかな。

と、こんなことを書いても、またいつの間にかほぼ日手帳かE1302に戻っていたりして。笑

0066

もしも、この眼が見えなくなったら
佛彫りはできるだろうか

常識的に考えたら
眺めて拝むものを彫るのに
その見た目がまったくわからず把握しようもない身体になったら
不可能だと誰もが云うだろう

しかし、本気でその状況を
全力で想像してみたら
僕は彫る事を止めないと思う

見えなくなってから彫ったものがこの生涯でたったのひとつも残せなかったとしても
それでも
僕は彫る事を止められないと思う

ならばどうやって彫るだろう

全力で想像してみたら
こんな風に彫るだろう

切っ先に指先を置いて
木の上を互いに共に滑らせながら
まるで木で刃を研ぐように
ときには指を刺し血を流し
途轍もない時間をかけて
まるで木で己を研ぐように

そんな風に彫るだろう

彫った木がどんな姿をしているのか
指先で撫でて観るだろう

見えない代わりに
観るだろう

そのときのために
観るということを鍛えよう
眼が在るうちに
見えるうちに

0065

五月、利き手指の手術を受けて一ヶ月の間何も彫れなかった。

九月、乗用車にはねられ二ヶ月の間満足に走れなかった

出来ないことが自分に様々なことを教え結果ずっとし続けているだけでは登ることのなかった道を案内され味わうことのなかった想いを感じられたことを今思い知っている。

小走りでも途中歩いてでも、自分の足で地を蹴って走れることの何と嬉しいことか。

力が満足に入らなくてもこの手で木を支えて鑿を握り締めて音を立てて木と話しほとけを彫り起こすことの何と喜ばしいことか。

一見して無駄に思えることも、実は無駄なことなどひとつもない。
回り道は、結局それが自分を伸ばす好機の道だったという仕掛けが、人生にはいたるところにあった。

本当の答えが出るのはかなり先の話だ。おそらくこの一生が終わるころだろう。もしかすれば答えが出ないかもしれない。だから、この身に起こるすべてのことを無駄扱いせず、打算的に過ごすことなく、数珠つなぎにしてこの心に絡げて暮らしていこう。

働くことも、走ることも、彫ることも、祈ることも
想うことも
すべてつながっている。

0064

うまく文字で表現できず誤解を生ずるかも知れないが単刀直入に書くと

『自分がやっている事やろうとしている事は芸術美術ではない。アート作品を作っているのではない。自分は芸術家にも表現者にもなろうとはしていない』

オリジナリティとか自分らしさとか独創性とか他にないものとか。
一目見ただけでこれは自分が生み出したものだとわかるものを作り出すとか。

そういう事はそういう事を追い求めている方々にお任せする。
自分はそういう事のために彫っているわけではないしそういうことにまったく興味がない。

己の作品を広く世に知らしめその中に他者とは違う何かの存在を世に誇示しそれを目にした多くの人がそのオリジナリティを評価し認める、そういったサイクルに身を置き生業とするのならそれは当然必要なことであろうし、それを成り立たせなくては生き残ってはいけないしそれを生活の糧として生きていくことは到底不可能だろう。

だが自分はそういう世界に興味がない。そんなことのために刀を握って木を彫っているのじゃない。
自分にとっての佛とは、佛像とは、まったくその存在の意味を異とする。

救われるべくしてそこに居る人が在り、その人が一心に手を合わせ祈る先にあるもの『佛』は、誰かの表現意志のこもった『美術作品』であったらおかしいのではないかと自分は考える。

祈りを受けとめる器のようであるべきもの、それが佛像であると自分は考える。

祈る者の想いを受けとめる佛は、それそのものが何かを主張するものではなく、手を合わせる者の鏡でなくてはならないと考える。特定の誰かが彫ったものだと一目でわかる特徴的なものであったり彫った者の『らしさ』が宿っているもの即ち表現者の『作品』である事に自分は大きな違和感を抱く。

技巧、技術、そういったものの素晴らしさはとてもよく理解できるし、美術作品、仏教美術としての仏像というものが現世まで守られてきたことへの感謝は無論、在る。著名な仏師である定朝や慶派仏師の面々の素晴らしさもよくわかるし、快慶の彫る仏像はとても好きだ。

だが、云ってしまえば、『芸術作品』として人を慄かせ感嘆の声が出てしまうようなものに対して、静かな心で自然と手を合わせ拝むという行為に至ることは、自分はまず、ない。
『これは自分の作品だ』と誇示する人間が彫った佛を、どうして拝むことができようか。

その前に坐したとき、心が落ち着き自然と両の掌が合わさり知らぬ間に拝んでいるという心情に自分をしてくれる佛像には、何の主張も誇示もない。誰が彫ったものかなどと考えさせない。ひとしきり拝んだ後で軽くなった心を思いやり、その佛を彫った者とこれまで守り残してくれた者への感謝が湧き出てくる。そこで初めて、どんな人が彫ったのだろうな、と思慮するのだ。

僕が彫った佛だなんて、わかる必要はない。
そんなことは、どうだっていい。
僕らしい佛など、彫ろうと思っていないのだよ。

観る者がただ無心になり思わず手を合わせ拝んでしまう佛。
観ていると手に取って触れて撫でずには居れない佛。

そんな佛を彫りたいのだ。
たくさんたくさん、彫りたいのだ。

0063

Facebook。

そこでしか繋がっていない人がいるのでやめられないというだけで。
もう最近は使うのが嫌で仕方ない。

重いし余計なものまでたくさん見せてくるし。

誰が何にいいねしたかなんてみたくないよ。重たい宣伝とか同意しないと次を読ませない何かとか。
飽きました、というのが正直なところなんだけど。