じぶんROCK

どのような世にあっても
己を幸せにする何かを辺り一面につくるのではなく
どのような世にあっても
己の幸せを感じられる心を己の中につくりたい

あらゆるものにその輝きをみつけられる
そんな心を

simple

書の極意は、心を万物にそそぎ、心にまかせ万物をかたどること。
正しく美しいだけでは、立派な書にはならない。
心を込め、四季の景物をかたどり、字の形に万物をかたどる。
字とは、もともと人の心が万物に感動して作り出されたものなのだ。

〜性霊集/空海〜

ギルド

まだネットもコンピュータも一般的には普及していなかった学生時代、不立文字という言葉を何処かで耳にし、それが耳から離れなかった。

ふりゅうもんじ。

この言葉が内包するその意味も、今ではそのさわりくらいならネットで調べて手がかりくらいは掴める。
しかし、当時はそれすらままならず、音で聴いたことでその漢字もわからないまま、齢丗をだいぶ超えた頃にやっと不立文字というその文字列に出逢うまで、その音は頭の中にずっと眠っていた。

ろくな道具もなく、中学生の時に両親に買ってもらった彫刻刀数本と小刀と、祖父の形見の鑿数本だけで佛を彫っていた頃からやっと、この歳くらいの頃から道具が買える余裕が出、同時に仏教のことを耳に入れても理解と反対側の方向へ段々と行かなくなってきた。

不立文字という言葉の意味は未だよくわかっていない。
国語辞典で調べた「意味」ということではない。言葉が表すものという意味では、この文字列が表していること自体はわかっている。
が、これが不立文字というものの意味である、という明確な答えを形をもって目の前に出せるか、と云われれば、それはまだ無理だとしか云いようがない。

伝えようとすること、教えようとしていることは、文字や言葉では表しきれない。
それは、実際にその峰へと己の足で向かい、その眼で眺めを観なくては何もわからない。
そういうことなのだろうな、と、今はまだおぼろげに感じているだけだ。

何故なら、この文字列の意味することでさえ、わたしはまだ、体現できていないからだ。

不立文字
ふりゅうもんじ

わたしはまだ、この文字を、読めているというだけなのだ。

その峰への入り口らしきものがみえただけ、歩き始めたばかりなのだ。

BE FREE (WITH MUSIC)

0788「増改築のために思い出深い楠を伐った、その木で何か彫ってもらえないか」という、これまで大変お世話になっている方からの嬉しいご依頼に応えるべく彫った、地蔵菩薩立像。

お像の大きさにはあえて刻まず、戴いた枝すべてをそのままに、木の中におわすものをお迎えする気持ちを大切にしながら彫りました。

衣や袖などはおもむくままに彫りましたので、おかしなところがあるかもしれません。
節や芯の位置もなかなかに手ごわく、それがそこに在るように在るだけ、となってくれるよう、ゆっくりと木の中を眺めながら彫っていきましたので、既成の姿の佛を彫るよりもかなり時間を要しました。

楠は目がまっすぐでない分、正目になったり逆目になったりでなかなか気難しい木ですが、木と話ができているような気がしますので、好きな木です。

久しぶりに一から十まで木とやりとりしながら彫れた、嬉しい一体でした。
いや、もう少し仕上げがありますが。

未完成交響曲

俺殿
おれは、あんたには祈らぬよ

人のことは、自分じゃどうにもできないことが多いから
祈るしかできないことが多いから
心から深く祈るよ

だがね
己のことは
己がやればすむことだ
己がやらねばならないことを
神に仏に祈ってどうする

自分じゃどうにもならないからと誰かのために祈ったことが
己のためにと祈ったことでそれを退けてもらっちゃったら
困るのよ

神仏もそんなに暇じゃない

俺殿よ、
己でできることならば
祈る前にやればいい

だからあんたにゃ、祈らぬよ
祈ってなんか、やるものか

祈ってなんかやらなくたって
あんたはできるとわかってる

だってあんたは、おれ自身

カルマ

この星にはたくさんの生き物が生まれ生き死んでいく。
ほとんどの生き物がそれぞれに相関を持って暮らしている。

人だけが違う。

人は、知恵を持ちながら、臆病なんだろうか。
己の身を守るためなら、豊かな暮らしのためなら、人でない他者を皆殺しにする。
生き物として必要な殺生、摂食行動とはまったく別な目的で、他者を皆殺しにする。

立場を逆転させたとき、脳内で私は恐怖を禁じ得ない。

それでもその他者は、人間に報復することなくそれを受け入れる。
選択の餘地もないことなど百も承知で、仕返しなどはしてこない。
その本音を聴くことが、できない。

生きているのは、生きていていいのは、一体どっちだ。

自分は生きていていいのか、悩むときがある。
それでも、生きたい。
生きてほしい。

愚かなことだ。

かぞえうた

悟りといふ事は
如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで
悟りといふ事は
如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた

正岡子規

信者よ盲目であれ

龍安寺の石庭、奥から8枚目の床板から臨むと15の石が全部みえるらしい。

#ニッポンぶらり鉄道旅
#nhk

Born to Be

祈り願うし心は込めるが
魂を込めては彫っていない

元々ほとけであるものに
阿呆の魂、込めてどうする

自分の魂込めちまったら
そいつがほとけでなくなるだろう

魂は、込めるもんじゃない
削るもんだ

努努

おれは仏師じゃないからさ
思わず手を合わせてしまうような、とか
癒されるようなお顔、とか
救われるような表情、とか
救われるべき人が手を合わせて拝む対象を彫ろうなんて烏滸がましいことは思っちゃいないさ

救われてほしいと思う人がいつか何処かで何かによって救われますように、と祈ってるって気持ちを彫るって動作で昇華してるだけなんだ

美しいもんに仕上げようと思って彫ったら、ただの人形彫ってたよ。

寺で真言唱えて手を合わせて拝むのも
山登って地面に木々に岩に空に拝むのも
うちで木を彫ってるのも
ぜんぶ同じ

ゴミが落ちてりゃ拾うのも
泣いてる子がいりゃ声かけるのも
まごついてる婆さんに手をかすのも
ぜんぶ同じ

大したことができないから
祈ってるだけ
色んなことして祈ってるだけ

ほとけの前にいると思うと
何をしようとちっぽけなもんだ

そんなちっぽけな祈りを
こつこつと続けるだけ

誰が祈ったって同じだから
心が詰まってりゃ
みんな同じだから
誰がやったかわからないようなちっぽけな祈りのひとしずくになって

祈ってきたんだよ

誰かのために
自分のために

祈っていくんだよ
彫り続けていくんだよ
祈り続けて、いくんだよ

誰が祈ったかなんて、おれかどうかなんて
どうだっていいや。そんなもん。