0012

少し前まで私は仏像を彫るとき「仏、来い」と念じて彫っていた。ある人の言葉「自分が努力した分だけしか仏はお前を呼ばない、仏は来ない」というものから『努力することでしか前進できない』と感じて励んでいた。人に拝んで貰えるものを彫りたい一心で、その想いに囚われていた。

だがこの春、金沢のあるお坊様がお話をして下さってから、あっさりその考えは吹き飛んだ。来いと呼ばなくても、ほとけはそこにいる。ほとけはみんなの中にいる。呼ばねば来ないというのなら、努力をしたくてもできない人にはほとけは来て下さらないのか、慈悲を下さらないのか、と。

ほとけさまはそこここにいらっしゃる。誰のものでもない。呼ばねば来ないようなものではない。みんなのほとけさまなのだ、とお坊様は教えて下さった。仏像とは形を成した造形物であるけれども、ほとけさまというのは仏像そのものではなく、その中にあるナニカなのかな、と感じる。

姿や持物も決まりがあるけれど、その姿や佇まいより寧ろその存在、内在するだろう形なきナニカに想いや祈りを寄せるもの、そういう存在ではないのかな、と。だから美しいお顔も息を飲むような写実造形も素晴らしいが、そこにナニカが宿っていないとほとけさまではないのかな、と。

そういうモノを彫りたいのならば、いつもほとけさまが心に、ここに、そこに、あそこに、みんなの中にいるずっといる、そしてそれは誰かのものじゃなくみんなのほとけさま、そう思う心を持ち続けること、これこそが『ほとけ彫り』という者なのかもしれないと、今はそう思っている。

そんな想いを心に乗せてこれからも、みんなのほとけさまを、祈りながら静かにこつこつと彫り続けていこうと思っている。みんなのほとけさまが、今もほらそこにいるよ、こっちを見てくださってるよ、と、そう感じてもらえるようなモノを、焦らず止まらずこつこつと、彫っていこう。

もしかしたらたぶんこれは、自分自身の意思であるかのように思えて実は、ナニカの意思なんじゃないか、と、ふと思う。自分で感じて自分で決めて自分でやっているかのように思えて実は、書かされている。彫らされている。見せられている。生かされている。私はそれに、感謝する。

0011

一救より、先日20日に大船の少林寺さんで催されました「ヨコハマでつながろう!東北」におけるバザーでの、ほとけの報告を申し上げます。

 

みなさんに頂いたお金がどのように使われたのか、それは買って頂いた皆さんには当然知る権利があり、同時に彫った私の義務でもあります。

私は、あまり、自分がしたことを周りに言うのが得意ではありません。
ですが、これはそういえるようなことではありませんので、きちんとお知らせしたいと思います。

 

収入
地蔵500円×28体=14000円
根付300円×18個=5400円
板佛1000×1つ=1000円
合計20400円

支出
南三陸町義援金8000円
気仙沼市義援金8000円
これまで及び今後の材料費並びに道具消耗品費4400円
合計20400円

差額0円

 

すべてを寄付するつもりでいたのですが、彫刻刀を1本折ってしまったため、またいいものを彫るために、ありがたく使わせて頂くことも合わせてご報告させて頂きます。
お許しください。

 

このお金は、被災された方々のこれからの安らかで幸せな未来を願って、催しに足を運んでくださった皆さんの、暖かいお気持ちです。
これが、少しでも被災地の復興に役立ってくれることを、心から祈っています。

以上、ほとけなう。

 

0010

これは、私が11歳のときに初めて彫ったお地蔵さんです。

祖母からもらった高野山のお土産、土産物屋でよく売っている石の小さなお地蔵さん。
あれを自分で彫ってみたくて始めたのが、これでした。

これを見た父が当時、

「おお。できたなあ」

と、大きな手で頭を撫でながら喜んでくれたのを、今でも覚えています。

 

***

先週の話。
長女のクラスに去年の春、気仙沼から引っ越してきた子がいました。
すぐにクラスに打解け友達もたくさんでき、その中で長女も仲良くさせて頂いていたようでした。
しかしこの春から、ご両親が気仙沼に帰ってやり直すということで、引っ越すことになったというのです。
その子に「お父さんのお地蔵さんをあげたい」と長女が申しましたので、その子とご家族のために、長女に渡しておきました。

19日の終業式の日にお別れをしてきたとのことでした。

大きな被害を被った気仙沼市ですが、幸いにもご家族は全員無事だったようですし、お父さんも職に復帰できるということです。
しかし、家は流されてしまって跡形もないとのことでした。
それでも、愛する町でやり直したいということのようで、その子もがんばると言っていたそうで、お地蔵さんをたいそう喜んで受け取ってくれたそうです。

***

20日の祝日の話。
大船の少林寺さんで、法要と被災地に関する上映会、バザーが催されました。
(当初はこのブログでも紹介しようと思っていたのですが、無情にも月日が流れて機会を失いました)
そのバザーに、和尚様のご配慮でわたしのお地蔵さんと地蔵根付けをおいてくださるということで、この一ヶ月間、ひとつでも多くと思い、お地蔵さんを彫っておりました。

あの地震と津波があってから、一体自分に何が出来るだろうと考えながら何もできず、ただ祈るのみだった日々でした。そんな日々の中で、ただただ祈り続けるためにお地蔵さんをこつこつと彫ってきました。
そんなお地蔵さん、そしてその祈りを、和尚様が繋いでくださいました。
さらにはお陰様で、お地蔵さん28体と地蔵根付け18個すべて、来場者の方々に買って頂けました。

そんなバザーで、売り場スペースのディスプレイ用に、と出展品とは別に、板仏を持っていきました。観音様のレリーフを彫った板状の木材で、観音様を彫ってある部分以外は原木のまま、というものでした。客引きというか、にぎやかしというか、こんなものを彫る者です、というのが少しでもわかった方がいいかな、という気持ちもあって、お地蔵さんの隣に並べて置いておきました。

ところがその板仏、お寺のお隣で畑を営んでいる方にひどく気に入って頂いてしまい、売るつもりはまったくなかったのですが、「仏様が大好きなんですよ」という熱意に負け、買って頂きました。

頂き物の原木の木目や色合いが良かっただけで、大した彫り物ではなかったのですが、その方は元々ほとけさんがお好きな方だそうで、鎌倉などによく行って仏様を拝んで来るのだと仰っていました。
そのような仏好きな方が、べらぼうな値段でなければ是非譲ってほしい、と仰ってくれましたので、しばらく考えましたが、快くお譲りしました。

***

自分が彫ったほとけを誰かがほしいと言ってくれる。
それを見て、拝んでくれたり大切にしたりしてくれる。
これだけでもう、こんなに嬉しいことはないわけです。
これだけでもう、彫って良かったと感じるわけです。

しかし、一つ目の話と二つ目の話では、違う点に想いが向きます。

それは、対価が発生しているかどうか。

好きで彫っている分には、どんなモノでも構わないでしょうし自己満足のレベルで十分なことでしょう。

しかしそこに対価が発生したとき、それはもう「ただ趣味で彫っています」とヘラヘラ応えてはいけないのではないか。
私が彫るほとけに私財を擲ってくださる方がいて、その方が価値を見出してくれているからこそお金を払ってくれる。
これに対して、素直にその対価を頂けるだけのものを彫り上げなければ、失礼ではないか。

当初、バザーに出品すると決まってからは、このようなことを思いながら彫っておりましたが、実際にバザーで多くの方々と対面して話し、ほとけをお渡ししてお代を頂戴するという動作を繰り返したとき、しみじみと、こんなことを想ったのです。

ただし、それと同時に、対価が発生するから素晴らしいものを彫らねばならない、とは、なりたくはないのです。
対価が発生しようとしまいと、腕を振るって彫ることに妥協がない心でいよう、という気持ちもまた、新たになりました。

わたしの彫るほとけを見て、かわいいね、ありがとう、と仰ってくださる方がいる。
その嬉しさは、喜びは、初めてヘタクソなお地蔵さんを彫ったときと、何も変わっていません。

しかし。

いいね、と言ってくださる人がいる限り。
ください、と言ってくださる人がいる限り。
行けるところまでのぼっていきたい。

好きだというならどれほど好きなのか、好きだという分だけ努力してみよ。
ほとけ来い、と呼び続けてみよ。
この手が何処まで届くのか、自分の「好き」が何処まで届くのか、試してみよ。

そんな風に想い直すのでした。

***

いつまでも初心でいるのではなく、初心を忘れることなく歩み続けられること。

何事も、云うは易し。

ならばもう、何も云うまい。

さあ、はじめよう。

0009

今、毎晩のように地蔵尊を彫っています。
差し上げるためのものもあります。とあるところへお出しするものもあります。しかし、これほどたくさん立て続けに同じものを彫ることは、これまでありませんでした。どうしてか、昨年夏辺りから、ほとけ来い、ほとけ来い、と念じては、地蔵尊ばかりを彫っていました。それも、所謂「地蔵菩薩」ではなく、このようなわらべ地蔵ばかりを。
何故かは自分でもよくわかりません。もともと地蔵尊が好きだと言うこともあります。おそらく。

しかし。しかし。

地震。津波。台風。洪水。土石流。噴火。

人の力ではどうしようもない、様々な災害。
それらは、いち生き物としての我々にとって、受入れるしかない出来事。
避けようもなく防ぎようもない、しかたのないことだ、と思うしかない事象。
しかし、その一言で気持ちがすめば、誰も涙など流さない。

私は、被災した現地を知りません。
被災した方々のこれまでや現状を目の当たりにしてきたわけでもありません。
同じ目に遭ったのではないので、同じ気持ちがわかるはずもありません。

それでも、同じこの島国で生きる者として、寄り添えるものなら、心だけでも寄り添いたい。
何もできることがなくても、祈ることだけはやめたくない。
祈ることを、やめられない。

彫ることで祈り、祈ることで臨む。

笑顔がそこにある未来を。

0008

清水の送り盆、灯篭流しの日。

13日に迎え盆をし、今日がその送り盆。

ジイチャン、バアチャン。
僕は、大切な人たちをちゃんと愛することができていますか。

そこからまた、見守っていてくれるかな。

がんばるからさ。

じゃあ、また、来年まで。ね。

他の写真はこちら。

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いろいろと仏像を彫ってはいますが、これまでにここにあげたような、造作が細かい仏像を彫ろうとすると、原木から完成までにかなりの時間を要します。

本職で仏師を生業としているのであれば、一日中やらねばならなくなるわけですから、観音様と言えども、1週間もあれば完成できると思います。

しかしながら、サラリーマンをしながら、休みの日や平日の夜に彫ると、これがなかなか進みません。
観音様は、3カ月かかりました。

そうすると、比較的早く完成出来て、それなりに彫刻を楽しめる題材が欲しくなります。

そんなときには、この地蔵尊、所謂お地蔵さまは、とてもよいです。
この写真くらいのお地蔵さまであれば、仕事が少し早く終えられた日が3日ほど続けば完成できます。

現在、比較的短時間で彫ることができるこのお地蔵さまを、なるべくたくさん彫ってみようかと考えています。
彫ることによって祈りながら、被災地の復興を願おう、などと言うとおこがましいですが、そんな気持ちで一体でも多く彫ってみようかな、と思っている最中です。

実際は、なかなか時間も取れないのですけれども。

もし、こんな自分のお地蔵さまでも「ほしいな」と思ってもらえる方がいらっしゃったら、彫らせて頂くこともやぶさかではありません^^
そんな風に思ってもらえることがもしあったら、本当に嬉しいです。
そして、それで誰かの心の支えになるのなら至極本望です。

そのほかの地蔵尊はこちら。

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まだ鑿や彫刻刀を満足に買えなかった中学生時代。
どうしてもこの観音様を彫りたくて始めてみたものの、荒彫りだけで終わって放置していました。

働くようになって道具をそろえられるようになってから、やっと仕上げ彫りにかかって、やっと彫り上げた観音様。

だから、少々手の長さや足の大きさに難があります。
それでも、これでもかというくらい木が乾いてからの仕上げ彫りだったので、彫りやすかった。
台座も光背も、違う木ですが、すべて仕上げてみた初めての仏像さんでした。
完成するのに20年以上(間十数年は手つかず笑)かかる仏さんなんてないよなあ。
でも、観音様って、やっぱり好きなんですよね。

因みに体長は20センチくらい。
前回アップの白衣観音が30センチくらい。
もっと大きなモノも彫ってみたいんですが、木が手に入らないんですよね。

完成したのは、4年前、になるのかな。

まだこんなもの送られても困ると思うのですが、近い未来のいつか、被災地復興の祈りを込めて謹彫した僕の仏像を、差し上げられる日が来たら嬉しいな、と思っています。

夢は、全国行脚しながら仏像を彫っておいていく、円空さんのようなことができたらな、なんて夢もあったりして。

他の写真はこちら。

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義兄のお父さんが、群馬でこけし職人をしてらっしゃいます。

そのお父さんに僕が仏像を彫っていることを伝えると、こけしを作るための原木を何本もくれました。

写真では少し色が茶色くなってしまっていますが、白い木、ミズキです。

群馬の山の上にある巨像、白衣観世音菩薩、通称高崎観音を模して彫りました。

何年前に彫ったか、もう忘れてしまったなあ。

一昨年の夏、義母さんが入院したときも、もう少し小さいサイズのものを3日で彫って差し上げたことがありました。

とても愛着のある、大好きな観音様です。

他の写真はこちら。

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「蝶が羽を動かすと、やがて地球の反対側で竜巻を発生させる」

バタフライ・エフェクト。

ほんの小さな出来事が、巡り巡って巨大な効果を生み出すのだとか。
そしてそれは、物理現象だけでなく、人の心にも起こりうることなのだ、というのです。

この本は、そんな話を通して、自分が今いる意味を、そっと教えてくれるような、そんな感じがしました。

本の中にも出てきますが、僕が大切に感じていることば、「ノーブレス・オブリージュ」も、通じるものがあります。

フランス語でnoblesse oblige、「高貴さは義務を強制する」という意味のことばですが、現在では、「自分の立場に伴って発生する道徳的義務」とも訳されるそうです。

すべての人には存在意義があり、そのそれぞれの小さな行いによって、世界の大きな出来事が動いている。

自分をなめてはいけない。
自分を蔑にしてはいけない。
自分にも、ノーブレス・オブリージュは、胸の中にある。

だから、ほんの少しのことでも、

諦めないで、種をまいて。
諦めないで、水をあげて。

綺麗な花が咲くのを待とう。

あなたのその小さなひとつが、きっと何かを、変えるから。